白の紙  上

 その日、ルックは機嫌がよかった。

 ぐっすり眠れたのか目覚めはすっきりとしていたし、気温も暑すぎず寒すぎずの適温。仕事は休みだったし読みたかった本も読めた。何より今日、破天荒軍主の顔を見ていない。

 ルックはもう一冊読もうと、図書館へ足を向けた。

 それが、間違いだったのだ。

 同盟軍の図書館は離れだ。回廊は続いていないので、一度外に出なくてはならない。外と言っても敷地内だ。突然敵の襲撃に合うわけでもない。

 空を眺め、かといって人にぶつかるわけでもなくのんびりと図書館へ路を歩く。

 実にいい日だ。そう思いながら辿り着いた図書館の戸を開けようとした、その時。

 自動ドアでもないそれは、蝶番を無視してルックの方へと押し開かれた。

 いつもならば、それこそ戦場であれば間違いなく反応できた。しかし、ルックは油断していたのだ。このよき日に。本拠地という味方の巣窟に。


 よもや味方からの襲撃を受けるなどと、考えもしなかったのである。


「ルックーー!!!」

「えっ…っ?」

 突然自らの方へと倒れ込んでくる戸と、嬉々としたベオークのものと思われる呼び声。呼び声は戸のすぐ後ろから聞こえるので蝶番を破壊したのは彼であろう。

 不覚にも対応することの出来なかったルックは、戸とベオークに押しつぶされ石畳に後頭部を強かに打ち付けることとなった。

「うっ…」

 小さく呻くと、ルックはそのまま意識を失った。

「ルック、ルック!」

 いつもなら確実に何かしらの報復が返っているはずなのに、今自分にはその痛みがない。そのことに気が付いたベオークは、ルックの顔を覗き込んで漸く小さな魔術師が気絶していることを認識した。

「…あれ?ルック?ルック!?」

 予想外の出来事に錯乱した英雄は、ルックを抱えて遠回りした挙げ句に医務室に辿り着いた。





「ただの打撲です。直に目を覚ますでしょう」

 そう診断を下したのは同盟軍の軍医、ホウアンだ。名医と名高い彼の診断であるが、ベオークはそれに納得がいっていなかった。

「ただの打撲?ただの打撲でルックが気絶するわけがないじゃないか。絶対なにかある。もっとちゃんと調べてくれ。ほら、CTとか使って」

「何ですかそれは。そのシーティーはともかく、外傷は後頭部のたんこぶ一つ。もっと調べて欲しいのなら、頭割るしかないですけど、いいですか?」

 自分で言ってからそれはいいと思ったのか、ホウアンはもう一度「いいですか?」と繰り返した。もちろん、それを良しとしないベオークであるが。

「いいわけあるかー!ちょっとホウアン、最近僕が大人しくしているからって調子乗っているんじゃない?」

「いえいえまさか。彼のトランの英雄殿にそんな畏れ多い…むしろ、そのベオーク殿の思い人であるからこそもっと詳しく調べるのはどうかと思いまして。何かあっては大変ですから」

「そんな嘘丸出しの大義名分なんぞ要らないね」

「巧妙な嘘の大義名分なら開いても良いんですか?」

「よくないから!」

「…ぅん……」

 そんな二人のやりとりの最中、小さく呻いたのは寝台に横になっていたルックだ。

 耳ざとくそれを聞きつけたベオークはルックの顔をのぞき込み呼びかける。

「ルック!ルック!…あれ、ひょっとしてこれってチャンスう゛ぉぐあぶふべえっ」

「おや。お馴染みですね」

 ベオークが邪な感情を抱きルックの唇に自分のそれを接近させようかと思った瞬間のできごとである。日常茶飯事にルックにベオークは吹っ飛ばされる。

「あ…れ?」

 目覚めたルックはどかきょとんとした顔で吹っ飛んだベオークと己の握られた拳を交互に見る。最後に小首を傾げ、いつもの鋭い視線ではない戸惑いを孕んだ顔でホウアンを見やる。荒んだいつもと相まって、今のルックは一層幼く清く見える。

「あの、すみませんが…」

「!?」

「貴方はどなたで、ここはどこですか?」

 ベオークは消え行く意識の中で、「記憶喪失キターーーーー!!!」と叫んでいたとかいないとか。







「ええと、僕は「ルック」で、ここはハイランドの同盟軍。同盟軍で僕は魔法兵団長を務めていて、そこに寝ているトランの英雄ことベオークさんと仲がいい…ということで間違いないですか?」

 自分のことをそう認識しているルックより、ベオークをさん付けするルックを恐いと思うホウアンであるが、最後の「間違いないですか?」にすぐさま首肯することができなかった。

 端から見たら、ベオークとルックのどつき合いは(一方的にどつかれているように見えるが)ある種超越した痴話喧嘩だ。しかし、ベオークがそう思っていてもルックが心底疎ましく思っていると言えばそうだねと納得できる。彼等は本当に、仲がよいのか?

「えーと、ないと思いますが…」

「そうですか?あの人、ベオークさんには、どうしてか釈然としない気持ちを抱かされてしまって…。すみません、失礼ですよねこんなこと」

「それは仕方がないと思いますが…」

「…やっぱり、なにか…?」

 しおらしいルックをなるべく見ないように、ホウアンはベオークの手当をしながら言葉をオブラートに包む。

「いえ…ただ、あなたは軍主様を少し苦手にしているように見えましたので」

 それから2、3言を交わし、とりあえずどうするのかを軍主と軍師に尋ねに行くことになった。ベオークはベッドに放っておく。

 いつもならルックの攻撃を受けてもこうまではならない。よほど驚いたのだろうか。







 同盟軍の2大権力者の元へ行く途中、奇異の目で二人は見られた。

 そもルックとホウアンが一緒にいるのは珍しい。戦場であれば兵を癒す力を有する者として軍医の傍にいることもあるが今は平和な本拠地。しかも、キョロキョロと心細そうな顔をしたルックだ。いつもの漢らしいルックとはうって変わったその可憐な姿を皆直視できずに赤面を逸らす。

 それに気付いたルックはホウアンの服の裾をきゅと掴み尋ねた。

「あの…僕って皆さんに嫌われているんでしょうか…?」

「とんでもない。あなたは大人気ですよ。ただ、彼等はいつもと違う貴方を見て戸惑っているだけでしょう」

 ホウアンが言い終わると同時に、ゴゴゴゴと地響きを鳴らしながら掛けてくるのは気絶していたはずのベオークだった。

「ルーーックーーー!!!」

 そのままバッと飛びルックに抱きつこうとしたベオークだが、それは驚く事ながらもいつも通りに阻まれた。

「ぐはぁっ」

 地べたに転がるその姿を見て、一体誰が「トランの英雄」などと分かるだろうか。

 そうした本人であるルックは反射的に出た己が手を見て驚いていた。

 しかし、聞こえる囁きに更に驚かされるのだった。

「なんだ、いつも通りじゃないか」









 ピクピクと小さく痙攣するベオークをまたもや放ってどうにか軍主と軍師の元に辿り着いた。

 にわかには信じられない話だった。あのルックが、魔法兵団長にして武術の達人であるルックが慣れているはずのベオークの襲撃を許すだなど。

 そう言って、二人はじーとルックを見るが、見られたルックは居心地悪そうに軽く俯いた。

「すみません…どうやら、僕や責任ある立場にいるようなのに、こんな事になってしまって……」

「……………」

「……なんというか、ねぇ?」

 顔を見合わせて、二人はただ首肯する。いつものルックとあまりにギャップがありすぎて、もう疑う事はできなかった。

「それで、その、僕どうすればいいですか?仕事、できる限り頑張りますが、逆に邪魔じゃないでしょうか…」

「ううん。でもいいよ、休んでて」

「ああ、とりあえず養生してさっさと記憶を戻せ」

 はい、とルックが綻んだところでベオークがまたもや襲撃してきた。

「ルックーー!!」

「はぁっ」

 ルックは振り返りざまに回し蹴りを繰り出した。それは見事にクリーンヒットしベオークは入ったそばから室外へ飛ばされた。

「あっすみませんつい!!」

 いけないとばかりに駆け寄るも、懲りずに再トライするベオークの腹部に肘を落とす。

「かはっ…!」

「ああっもう本当にすみません!体が勝手に…!」

 二度目の攻撃は重力も相まってもろに入り、ベオークはまた床とお友達になった。それを気遣うルックを見てぽつりと呟いたのはヴァーリであるが、シュウとホウアンはそれに答えられなかった。



「…本当に、記憶ないの?」



 答えられる筈もなかった。