僕はレックナート様にとても感謝している。もちろんそれは、あの牢獄から連れ出してくれたから。でもそれ以上に、彼と、出会わせてくれたから。

 その出会いは、僕の生まれた意味そのものだった。



乾燥地帯



 それは、ハルモニアを出てから間もなくのことだった。

 レックナート様に連れてこられた魔術師の島を訪ねる人間。彼は数年の滞在をレックナート様に請い、師はそれを許した。

 ハルモニアを出てから、レックナート様以外に見た初めての人間だった。彼はこっそりと自分を見つめる僕に気付きにっこり笑う。

「よろしくな」

 頭に乗せられた手が、いやに心地よかった。

 どうして良いか分からず俯いた僕は、考えるのが面倒になって逃げ出した。ポカンとした彼はいなくなった僕を指さして、「どしたんスか、あれ」と師に尋ねた。

 レックナート様は、ただ「ふふふ」と笑い続けるだけだったようだけれど。





 突然の環境の変化。どうにか順応し始めた頃に現れた異物。それが当初の僕の感想。はっきり言って邪魔だった。困惑するじゃないか。

 森の中に入って、僕は空を見上げる。カラッと晴れた青空だった。それから連想するものは、どうしてか見たこともない砂漠。今目の前にある緑豊かな木々を連想することも容易いだろうに、サラリと手を滑り落ちる砂の山を想像する。

 かわいている。

 何がだろう。大地?そんなことはない。初めて見た土は崩れることなく僕を立たせる。固くしっかりと、だけれど水気を含んだジメジメ感。やっぱりココロかな、と思う。それがどんなものかも理解してはいないのに。牢獄を出てから思考は目まぐるしく回転するようになったけれど、ほとんど使ったことのない顔面の筋肉は表情を作ることを億劫そうに拒否する。ただの闇に、足をつける底を創ることはどうにかできた。でもその大地は気を抜けば僕の足を砂丘に引きずり込もうとする。本当の砂漠ならいる動物も虫も、植物もない。

 見渡す限り僕一人。

 水を得て植物は芽吹くし、それを糧に動物は生きる。だから、僕のココロにはまだ砂しかない。



「おーい、えっとルック?」

 遠くから呼ばれる僕の名前。名付けられて日の浅い僕は未だ慣れない。相手も「合ってるよな」と確認する始末。
「なに」

「いやぁ、暫くここに厄介になるからスキンシップでもと」

「いらいないよ」

「ばっかお前、それじゃつまんねぇだろ」

 何が言いたいのかよくわからない。僕は漸く彼に目を合わせた。

「せっかく居候するんだぜ?楽しんだ方がいいだろ」

 太陽みたいに笑って、僕を巻き込んで地面に座る。その笑顔が彼の第一印象になった。





 彼が一方的に話しかける情報によると、彼の名前はテッドというらしい事が判明した。テッドもまた真の紋章の継承者であるらしく、だいたい300歳だという。昔の話だとなにやら笑って話していたがやっぱりよく分からない。会話が成り立っていないのだ。テッド一人でおしゃべり。そもそも、僕は喋ることに慣れていない。喋るというよりも、声を出すことに。先程テッドと2言3言かわして、忘れていた自分の声を思い出したくらいだ。

「なぁ」

 そこで漸く、テッドが僕に返事を求めた。

「笑ってみろよ」

 一瞬、何を言われたのかよくわからなかった。

 笑う?それがなんだというのだ。

「お前ずっとその顔なんだぜ?そんなんじゃ精神衛生上よくないって!経験者は語るね」

「…どうやって…」

「笑い方ってか?笑うなんてのは楽しければ勝手になるもんだ」

「たのしいこと…」

 思い出すまでもなく、そんなものはなかった。牢獄から今まで、たぶんずっとこの顔だ。

 黙っていると、テッドはふむと考える。

「…よし、お前はまず楽しい事よりも、嬉しい事で笑えるようになろう」

「何が違うの」

「腹抱えて笑えなくても、そうあるだけで満たされるって事もあるんだよ」

 でも、そんなものわからない。

 黙っていたら、テッドが問を投げかけてきた。

「幸せってなんだと思う?」

「…わからない」

「オレもわかんね」

 豪快に笑って空を見上げる。

 自分にも分からないものを、と。僕はちょっと変に思った。

「わかんねーけどさぁ、いや、わかんねっつか説明できねぇんだよな。でも、どうしようもなかった自分が他人といて、馴れ合って、馬鹿みたいに騒いでさ。思い返してみて楽しかったって思えんの。それがさ、何かシアワセぽくね?とオレ的に思うわけですよ」

 空を見上げたテッドに対し、足もとを見つめていた僕。いつの間にか空ではなく僕を見ていたテッドと目が合う。


「楽しい思いで作ろうぜ」

 なんなのさ。

「世の中悪いことだけじゃなくってさ」


 あの暗闇にそんなものなかった。

「生まれてよかったって、思える日が絶対くる」

 なかったけど、僕は。

「な?」


 僕は今、ここにいる。


「…うん」

 差し出された手を、取った。

 この瞬間、この出来事。それは僕の、最初の思い出になった。

「ルック、お前今笑ってるぞ」

 嬉しそうに指摘され、テッドも笑う。


 太陽みたいに笑うテッドは、僕のココロに雨をもたらした。


 渇いた大地はそれを吸収し、小さな芽を生み出した。それは育まれ、花開き、種をまき。いつか緑に囲まれるだろう。




 テッドは僕の雨になった。