ねぇ、ごめんなさい。
テリトリー −A−
僕がこの島に来て、5年が経った。
覚えている限り12歳くらいになった僕は、毎日欠かさず続けたおかげで、風に拒まれることなく紋章を使えるようになった。いつもはテッドが、極々まれにレックナート様が見ていてくれた。
テッドは相変わらず僕を孫のようだとか言っている。僕も相変わらず好きと言っているのだから、予防線にもなにもならないのに。
食器を洗い終えて、捲っていた袖を直す。一息ついてから、レックナート様の元へ転移した。
「何かご用ですか?レックナート様」
いつもは突然呼ばれるのに、今日はいつでもいいから来なさいと言われていた。昼食を食べ、テッドが畑へと行くのを見送ってからここへ来たのだった。
「ルック」
いつもより、重たげに言葉を吐き出す。真剣な声色に、自然と僕もつられる。
「はい」
「明日帝国の使者が来ます。今年からあなたが出迎えなさい」
「…はい」
いつかこんな日が来るのではないかと、思ってたんだ。
自分で自覚はあった。
テッドへの執着と、それ以外の排斥。あまりにも、極端な。
僕の砂漠の緑は、全てを多い尽くすものなどではない。広さのわからない砂漠の中に突如ぽつんと現れたオアシス。
入れるのはテッドだけ。
そもそも僕の心に訪れたのはテッドとレックナート様だけだ。何もなかった虚無に、砂漠でありとも土台を作ってくれたレックナート様。その乾ききった砂漠に雨をくれたテッド。
それだけでいい。それだけでいいのに。
小さなオアシスに閉じこもって、豊かな水と植物に囲まれて。この幸せな空間に、ずっと閉じこもっていたい。
「それじゃ駄目だ。ルック」
突如降りかかる愛しいあの声。
瞑っていた目を開いて、横たわったま声の主を探す。
テッドはすぐ傍にいた。僕の横たわる寝台の淵に腰掛けて、僕を見ている。その顔に、いつもの笑顔はなくて。
「テッ…ド…?」
代わりに悲しそうな表情を、携えて。
「そこは確かに心地いいさ。嫌な事なんてなくて、全て自分が知るものだけで構成されていて。でもな」
悲しそうな顔は真剣なものへと変わる。
「狭い世界で完結するな。何も知らない馬鹿になるな。世界を学べ。この世には辛いことが沢山あって、悲しいことも沢山ある。あるからこそ、幸せも沢山感じられる。些細なことで笑って小さな事で感動して」
そこまで言って、漸くテッドは笑ってくれた。
「そうして生きろ」
やっぱりその笑顔は太陽みたいで、僕はただ、目を見開いてテッドを見つめる。どうしてか、その眼窩から涙がこぼれた。
「テッド、それでも僕は嫌なんだ」
「ルック」
「分かってる。この島には籠もらない。いずれ星にも導かれる。レックナート様とテッド以外の人にも会うよ。でも!」
一度拭った涙はまた溢れて。
「僕のココロには誰も入れない!テッドしか、いらない…!!」
世界が何でできていようが僕には関係なかった。例え世界が終わっても、テッドと一緒ならそれでいい。テッドが望むなら、世界だって解放してみせる。
「ねぇテッド、僕を」
まるで跪拝するように縋って、希う。無理を承知で神へ祈る信者のように。
「嫌いにならないで」
浅ましい僕を、醜い僕を。
この身に不相応な願いを持って、馬鹿みたいだ。でもだけど、どうしようもなく。
「あいしてるんだ…」
ボタボタと溢れる涙はシーツを濡らす。もしこの涙で僕の存在を贖えるなら、体中の水分をそれに費やしたい。そんな傲慢、あり得ないと思いながらも。
伏したままの僕に、テッドの顔を伺うことはできない。ああ、やっぱり駄目なのかな。無理なのかな。こんな汚い僕を、嫌わないでいてなんて。ずっと隠しておけばよかった。心の奥に閉じこめて、毎日冗談みたいに好きって言って、誤魔化していればよかった。
ねぇテッド、出会ってしまってごめんね。こんな気持ち悪い思いさせてごめんなさい。あの時、レックナート様の手を取らずに牢獄にいればよかった。そうすればテッドに会えなかったけど、テッドに、迷惑かけることもなかった。
「なぁルック」
重い沈黙から、声が聞こえる。カーテンを引いた窓から、もう光は漏れない。暗い部屋には明かりもなかった。
ビクリと跳ねた僕の体に気付いてか、いつものように、頭を撫でてくれるテッド。これの意味することが分からなくて、勝手に想像して、悲しくて恐くて一層に涙は溢れた。
「オレは逃げたことがある。紋章の見せる記憶に堪えられなくて、100万世界のバケモノに紋章を預けた。何年も何年も暗い船に居て、誰と会うこともなく静かに暗闇を生きた。時間の感覚が狂って暫くした頃、船を訪れる人間がいた。そいつは真の紋章を持っていた。ソウルイーターと同じ、闇の眷属。それなのに、あいつは笑って辛くないと答えた。オレは自分が馬鹿みたいに思えて、結局そいつと一緒にバケモノ倒してソウルイーターを取り返した」
テッド、テッド、ああ、僕は。君の優しさにつけ込んだのだろうか。あんな言い方をすれば、テッドは同情してしまうかも知れない。どうして気付かなかったんだろう。
「その船を保っていた力が消えて、船は壊れた。久しぶりに見た空に目がくらんだ。太陽が眩しくて目が焼かれるかと思った。吹く風がとても冷たかった。オレは、生きているんだと実感した」
どうしよう。テッド、同情しなくていいんだ。嫌いなら嫌いだと、気持ち悪いなら気持ち悪いとはっきり言っていいんだ。君に嫌な思いなんてさせたくない。
「でもその時のオレは、人間の中にいながらもやっぱり人間が恐かった。紋章を追われていたせいで人間不信になってたんだ。なるべく一人でいるようにして、誰もいない空間に安心してた。でもそんなこと知るかって顔して、差し出してもいないオレの手をみんなして引っ張ってくんだ。払おうとするけどその手は強くて、結局オレは人に囲まれて。全部否定していたオレを、自分で否定せざるを得なかった」
その手が髪を滑って、僕の頬まで辿り着く。
「楽しかったから。幸せだったから」
そっと顔を上げるよう促すから、恐る恐る頭を上げる。視線は下げたまま。
「なぁ、ルック。オレは、お前にもそれを感じて欲しい」
テッドが僕を抱きしめる。どうしたらいいのか分からずに、ただ、その暖かさに縋った。
きっとこれは、親が子をあやすような、そんな、行動。
何事もなかったかのようにその日は終わり、また日常は始まった。
その日から僕は少しだけ大人しくなって、テッドは僕に、優しくなった。その穏やかな視線を向けられていると気付いた瞬間、顔から火が出るかと思うくらい熱くなるのを感じる。
ねぇテッド。僕は、どうしたらいいの。
この年から僕は、帝国の使者達の案内をするようになった。
僕の砂漠の端っこを、横断するものが現れるように、なった。