ここは、どこ?



小さな異物、喉に刺さった小骨のような。



 私の名はハヌドゥノアス・チャク・ファルバーン。長ったらしい名前が面倒なため、略称のアスファルで呼ばれることが殆どだ。

 現在23歳。第二学部の8学年生。

 この国の教育は4つに分けられる。5歳から10年間第一学部で学び、更に10年間第二学部で学ぶ。第三学部では15年と20年のどちらかを選ぶことができ、義務教育はここで終わる。第四学部を望む場合、20年学んだ者はすぐ進学できるが15年を選んだ者は20年コースへ編入の後進学となる。大抵はここで、皆学舎を離れる。しかし、それでもまだと言う者には、就職という形で研究部に在籍を許される。尚、研究部へ身を置き続け300歳を超えると、望めば政省、国の政に関わることができる。ちなみに、政省へはスカウトという形で入ることもできる。

 私が今向かっているのは、300歳を超えるも未だ研究部に在籍する人物に会いに行くためである。

 彼に出会ったのは、私が17歳、第二学部の2年生の時のこと。その出会いは偶然にして必然。出会うべきして起こった出会いだった。


 同じ匂い。


 とでも言うのだろうか。彼からは、そのようなものを感じ取った。それは相手も同じだったらしく部屋に招かれお茶を頂いた。それ以来、定期的に私は彼の元へ通っている。

 彼は研究部に在籍するが、その者達は住まいとしての部屋が研究室と同時に割り当てられる。

 部屋の前まで辿り着くと、ドアに着いている四角いプレートに掌を乗せる。力を発すれば呼び鈴となり、家主へ知らせ了承すれば隔てる壁は気体と化した。放っておけば気体はまた個体へと姿を戻す。

 部屋のソファーに腰掛けてティーカップを啜る彼に、立ち上がる気は更々ないらしい。

「いらっしゃい、アスファル」

「おじゃまします。ヘルズさん」

 彼は長い前髪をそのまま目を覆う形で放置している。辛うじて黒髪から覗く目はそれと同じ色をしていた。項の辺りでぞんざいに一括りされた髪は、解いても肩胛骨までは届かない。随分ゆったりとした服を着ているが、研究部に在籍する者は皆作業のしやすい服を独自に着こなしているものだ。

「どうぞ、座っておくれ」

 席を勧められ、私はいつものように彼の向かえに腰を落ち着ける。

 ヘルズさん。名をヘグセラルズ・クェンッドゥ・ミラーというが、彼はもう1000歳を超えている。外見は私と変わらないほどだが、尋ねれば24の時に止めたという。この国でも、1000歳を超えれば長生きと言われるだろう。もちろん、それを遙かに上回る人は多いが。だが、その年で研究部に在籍し続けているのは珍しい。政省の者がヘルズさんをスカウトしに来たことが1度や2度でないことから有能なのは察するに易いが、その誘いに乗らない事を、私はおそらく、誰よりも理解しているだろう。

 勧められたお茶を嚥下して、例の如く私達の談話は始まった。



「私はね、彼の夢見人が羨ましいよ」

「夢見人…ムー・アリビロ・シュガー?」

 ムーを知らない者は、学舎にも入っていない幼子くらいなものだ。教科書にこそ載っていないが、教師は決まって秘め事の如く生徒に彼の存在を伝える。ムーが起きるときは騒ぎになるから分かるのだが、その騒動も200年ばかり起きていないらしい。

「ああ。私は、彼に会ったことはないけれど、彼のように、なれたらと思う。全てを、知りたい」

 ヘルズさんはいつもゆっくりと、噛み締めるように言葉を吐き出す。

「彼の知識は確かに望ましいですが、私は彼のようにとは望みません」

「そうだね、私と君は似ているけれど、やっぱり、違うから」

 私達は探究者だ。強欲で貪欲に知識を欲し、私なんかは胴欲だ。他を全て排除しても知識を欲するだろう。

「私は知識を、欲しはするけれど、その体制は極めて受動的だ。こうして研究部にいることが、辛うじて探究者と、呼べる事かも知れない。それとは逆に、アスファル。君は能動的だ。君こそが、探究者と呼ばれるに相応しいね」

「…まだ、自分が幼い自覚はあります。たかだか二十数年生きただけ。知らないことが多すぎて、吸収する知識が多いだけかも知れないですよ」

 静かにヘルズさんは口に弧を描いて、声を上げずに笑った。



「いいや、ハヌドゥノアス。君は紛れもなく、探究者だ」



 そこまではっきりと断言されてしまうと、どうして良いのか分からない。困ってしまい、私は話題を逸らしてしまう。

「…研究の方はどうですか?」

 研究。研究部にいるのだから、ヘルズさんも当然に何かしらの研究を義務づけられている。ヘルズさんがその題材に選び、もう700年以上、つまり研究部に入ったときから研究しているものがある。


 この星の、始まり。


「研究ね、うん。駄目だな」

 手にしていた、もう殆ど中身の入っていないカップを置き、腹の辺りで手を組んで丸みを帯びた天井を見上げる。隠れていた、黒の目が露わになる。


「もう随分前からそんな気はしていたのだけど、私は、飽きてしまったようだ」


 突然の、事で。私は吃驚したのだけど。

「…そうですか。お疲れ様です」

 私も薄々勘づいていたものだから、すんなりと受け入れることができた。受け入れてしまった。私がその立場だとして、止められることなど望みはしないから。
止めるべきだったのかも、しれないけれど。

「ありがとう。そう言ってくれるのは、君だけだと思っていたんだ。だから、今日まで待っていたのかも知れない」

「………」

「アスファル」

「はい」

 ヘルズさんは私に視線を戻していて、私にとってあまり望ましくない予言をした。


「君の夢は、きっと叶えられないよ」


 夢。私の夢を知っているのは、ヘルズさんだけだ。誰にも言うつもりはなかったのだけれど、彼に会って、ヘルズさんのような人もいるのだと知って、話してしまった。それに後悔はしていないけれど、今思うと軽率だったとは思う。

「時間がね。私達にどれだけの、刻があろうと人はそれに、いつまでも堪えられるものではない。諦める時が、いつか来る」

 ヘルズさん、ヘルズさん。それはそうかも知れない。膨大な時間を持て余すことしかできない我等は、結局は皆その空虚に堪えきれずに命を絶った。ああなんて意志薄弱。私はそんな生き物にはなりたくない。

 私は目を伏せて、未来を思う。

「いいえ、ヘルズさん。私は、狂っていますから」

 分かっている。自分のこと。私が他と違うこと。それは、まだ100すら生きない若き過ちなのかも知れないけれど。私の思考は老齢としていて、どこか達観するきらいがある。進む時間の速さが周囲と違う気がしている。この思考が一人歩きして、今ここにない気がしている。

 どこにいるのか分からない。

 そんな錯覚を、私は不意に覚えるのだ。

 彼は元より大して見えていなかった目を俯くことで完全に覆い隠し、小さく微笑んだ。

「そうか、君は…私が思っていたよりも、ずっと…」



(壊れていたのだね)








 「探究者」と、呼ばれる者達は過去にも多く存在した。知識人ともてはやされ知ることの喜びを忘れてしまう者も多く、志半ばに諦めてしまう者が多かった。中でも一番多いのは、飽いてしまうこと。探究者の多くは、探究者たることが存在意義と同義だった。長い生を持ちはすれど、長すぎる生に飽きてしまう。知ることすらもどうでもよくなり、結局は皆死に絶えた。
 
 ヘルズさんも、結局は。

 ヘルズさんは死んだ。私が帰ったその日の内に。

 我等は死というものに淡泊だ。どうしてなのか考えることはないけれど。そういうものだと思っていたら、疑問に思うことすらない。私はずっと後に、逆に、人間は死をそこまで嘆くのか疑問に思うことになるのだけど、今はどうでもいい話。

 ヘルズさんが死んで、次の日にはその話題に誰も触れることもなく、時間は進んで。

 私も何事もなく、時間を進めて。


 一年が経った。


 ヘルズさんが使っていた部屋はすっかりからっぽで、誰も使わずにそのままだった。

 私はそこへ赴いて、自分でもどうかしていると思いながら感傷に浸る。少しは、悲しかったのか、寂しかったのか。ただの我が儘か。

 何れにせよ、私はここに目的があってやってきたのであって。

 ぽつりと彼の名前を出して、ふと嘲笑。


 私はそこで、老いることを止めた。


 彼と同じ歳でそうしたからとて、何がどうと言うこともないだろうに。

 ヘルズさんが死んだときの思いつきを、結局一年、捨て去ることができなかった。

 ヘルズさんを、ずるいと思う。

 何もかも投げ出して、思考することをやめてしまった。私は時々、それを羨む。だけれど、やっぱり夢を捨てられない。知りたい。それだけの欲求のために。


 私は根っからの、探究者だ。














ヘルズさん。アスファルに少なからず影響を与えたお人です。
ちなみに、アスファルの夢を正確に知っているのは、ヘルズさんが死んだ今ではムーだけです。
ムーは夢で知っているだけなので、アスファルが直接教えたのはヘルズさんだけ。