終章
そう。和やかだった。
エルヴィスが作った、できたてのチョコシフォン。それを機嫌良さそうに食べながら、ムーは談笑に耳を傾けていた。というのも、食べるのに忙しく話す暇は無かったためだ。
そう。幸せそうだった。
ぱくぱくとチョコシフォンを平らげていくムーは、実に幸せそうだった。エルヴィスの作るおかしを絶賛している。きっと。口を開けど言葉を発することなくシフォンをおさめていくので確認はできていない。
そう。突然だった。
何事もなくチョコシフォンを食べていたムーが、最後の一切れを飲み下したとき、普通にアスファルとエルヴィスは話していただけであった。本や町の話を聞き、何気なくこの島とエルヴィスの部屋を繋ぐ扉の話をしていたのだった。
それが。
「アスファルずるい」
突然だった。食べ終わったかと思えば「ずるい」と宣い、おもむろにポスターへと近付いたのだ。すると取っ手を垂れた袖ごと掴み戸を開いた。そこに繋がるのはエルヴィスの部屋。そんなのお構いなしにずかずかと進んだ。
「ちょ、ムー!?」
慌てるエルヴィスは駆け寄るが、気にする様子もなく鍵穴に手を突っ込んだ。
「うえっ!?」
奇妙な声を上げたエルヴィスをよそに、ムーの手は鍵穴に突っ込まれたまま。もちろん、鍵穴は例え幼子の手であろうと入るような大きさではない。鍵穴周辺はまるで水のようにムーの手を受け入れたのだ。
す、と手を引き抜くと、その手には鍵が握られていた。
「?」
それをムーはエルヴィスに差しだし、エルヴィスはとりあえず受け取った。
「この鍵でぼくのところに繋がるからね」
なにげにムーを考察していたエルヴィスは、お菓子を作りに来て欲しいのかと思った。
そこでふと、一つの疑問が浮かんだ。
あのピサの斜塔に、キッチンなどあるのだろうか?と。
「あ」
うっかり、とでも言うように、声を発したのはムーだった。
エルヴィスの手を取り、ムーはアスファルの家へと戻った。そのままムーが独断により増築した部屋へと足を踏み入れたが、そこで制止の声がかかった。
「ムー、その部屋は持ち主に返して上げた方がいいと思うな」
ムーはその部屋に、あのポスターと同じ役割を与えようとしていた。
「そうだね、さすがに家が欠けたんじゃ気の毒かな」
今更になってそう思ったエルヴィスもアスファルに同意し、そのためムーは部屋を戻すことになった。
そして、結局ポスターは貼られることはなかったが、既に張られていたポスターに新たな道が増えたのだった。
エルヴィスが僅かの帰路に付き、家にはアスファルとムーが残された。ちなみに、奪われた民家の一部屋はアスファルが元に戻した。
硬いと文句を吐きつつも、ムーは椅子に座る。無言のままに、目でアスファルに座るよう言い、それに逆らうこともなく、アスファルは腰を下ろした。
「矛盾」
突然発せられたムーの言葉に、それを理解したアスファルは尋ねる。
「私の行動と言動が?」
「放棄するんでしょ?だったら、住む地球も放棄すべき」
「それはしない。必要だもの」
「ぼくは気にしない。でもみんなはそうじゃない」
アスファルの目的。その為に、地球を欲した。その片隅を。
「アスファルの願いは、ベルフェゴールの探究だよ」
「そんなことは」
「歪み始めてる。浸食はかたつむりの歩み。それでもいつか辿り着く」
「私が、諦めない限り」
「アスファルが諦めたときは、死ぬときだよ」
「そうだね。諦めたのなら、生きる目的もなくなる。だから諦めない」
「嘘。『だから』じゃない」
生きるために理由を欲するのか。理由があるが故に生を欲するのか。アスファルは確実に後者である。生に執着はないが、願いが果てしなかった。いつとも知れない。あるともわからない。それでも一縷の望みは捨てられず、こうして生きているのだ。
「じゃあね、アスファル。また」
もう言うことはない。そう言いたげに、ムーは背景と同化するように消えていった。
静寂。それを壊したのは、アスファルのため息だった。
「迷いなどない。そんなものは、もう、とっくに」
手の甲を額に当て、目を閉じて天井を仰いだ。
いつもより5分の1程度短いです…
なんかちゃんと終れなかった。
「ベルフェゴールの探求」は、いつか使いたいと思っていた単語です。
意味は確か、「ありえない計画を皮肉る」、「不可能な企て」、だったはず。
ムーは「不可能な企て」としてしか言ってませんが。
今回は、なんか謎ばっかだったような気がします…